怒りを刺繍する夜
新卒で入った会社はエグいブラック企業だった。
芸能関係の仕事だったので、覚悟はしていたのだが、深夜残業、徹夜、パワハラ、セクハラが当たり前の、地獄のような環境だった。
労働環境は確かに悪かった。
しかし若いわたしにとっては、夢を叶えるためにはむしろこれくらい苦労している方が、いかにも頑張っている感じがして気持ちいいくらいだった(いま思えばバカである)。
しかし問題は、そこではなかった。
ブラック企業というのは、単に労働環境が悪いだけということはあまりない。
その労働環境を作り出している、「狂った奴ら」が必ず存在しているものである。
とにかく、その会社の人々は狂っていた。
一般常識はまったく通用しない、異世界の住人たちである。
結構な老舗企業だったのだが、おそらく真っ黒な労働環境が狂った人々を作り出し、さらに狂った人々が労働環境を悪くするという最悪の循環が起きていたのであろう。
そんな暗黒の異世界に、新卒Lv.1の最弱のクソガキことわたしはうっかり足を踏み入れてしまったのであった。
狂った人々、特に直属の上司たちからは、ありとあらゆるハラスメントを受けた。
その中には、辞めて数年たった今でも、思い出しては怒り狂ってしまうような記憶がいくつもある。
バカ田という上司がいた。
バカ田というのはさすがに仮名である。
とにかくすごいバカであった。
しかも見栄っ張りなバカである。
バカな上に女にモテたくて仕方ないオッサンであった。
芸能関係の仕事なので、ときに女性タレントなんかと一緒に仕事をする機会がある。
女性タレントが来る仕事になると、バカ田はめちゃくちゃ真っ黒に白髪染めをして現場にやってくる。
いつもはボサボサの白髪なのに、美人が一緒のときだけ、美容室でマジの真っ黒に染めた上に、大量のワックスでネチョネチョにして、LUNA SEAのメンバーみたいな髪型にしてくる。
LUNA SEAのメンバーみたいな髪型だが、顔はなんかいつもニタニタ笑っているオッサンであり、髪はすこぶるウェッティである。
わたしを含め周囲は「ゴキブリヘアー」とあだ名していた。
当然ながら女性タレントのみなさんに彼の努力が伝わることはなかった。
さて、そんなバカ田のアシスタントをしていたときの話である。
とある有名ダンサーと数日間仕事をすることになった。
我々の担当する作品の振り付けをお願いするのである。
彼は変わり者で知られており、バカ田も数日前からしきりに
「いやー大丈夫かな〜?みんなアイツについていけるかな〜?
ま、いざとなったらオレがちゃんとフォローするからさ」
などと言っており、うるさかった。
バカ田としては、ぜひともこのチャンスを利用して、変わり者の有名ダンサーにも臆さずバシッと意見して、スタッフや出演者に尊敬されるカッコいいオレ、を演出したい。
そういう気持ちがビンビン伝わってきて、本当に面倒くさかった。
さて、有名ダンサー(仮にケンとしよう)がついに現場にやってきた。
数名のアシスタントを引き連れて現れたロン毛のサングラス。確かにすごいオーラだ。
ゆったりと歩いてきて、振付家の席に座った瞬間、ケンはおもむろに口を開いた。
「おなかすいた」
慌てだすケンのアシスタントたち。
どうやらケンは集合時間(昼の1時)の直前まで現場近くのホテルで爆睡しており、起きてから何も食べずに来たためかなり空腹だったらしい。
「どなたか、食べ物をわけてくださいませんか」
ケンのアシスタントが叫ぶ。
そこにいたスタッフや出演者は戸惑いながらも自分のカバンをガサゴソ探ったり、近くの自動販売機を探したりして、手当たり次第に食べ物をケンに献上した。
その間、ケンは黙って待っていた。
ごついサングラスのせいでその表情はうかがい知ることはできない。
献上された駄菓子や缶コーヒーを口にしながら、ケンは動じることなく言った。
「じゃ、始めようか」
そこから、意外にもその日の振付は何事もなく終わった。
いや、開始30分くらいでケンが咳き込み始め、今度はのど飴を探して大騒ぎしたりしたのだが、振付自体の進捗はまあいい感じだ。
しかし、こんなことが毎日続いてはたまらない。
自分で言うのもなんだが、当時のわたしは大変気が利いた。
翌日……
出勤途中にコンビニでカントリーマアムの大袋とのど飴を買うわたしがいた。
振付開始前に、ケンの席にカントリーマアムとのど飴をセットする。
いままでうちの現場でこんなことをしているスタッフなど見たことがないが、スムーズな業務のためには致し方ない。
いや、さすがにケンとアシスタントたちも、昨日のことがあったのだから学習してなにか食べてくるか、買ってくるかしているのでは……?
そしてケンは今日も現場にやってきた。
わたしがカントリーマアムとのど飴を置いた振付家席にやってくると……
何も言わずにカントリーマアムの袋を開封し、ムシャムシャ食べ始めた。
3枚ほどカントリーマアムを平らげてから、ケンは言った。
「じゃ、続きやろうか」
いや、学習せんのかい。
結果として、その日の振付が終わる頃には、カントリーマアムものど飴も跡形もなく完食されていた。
ケン、腹減り過ぎかよ。
というわけで、ケンとアシスタントたちは、まったく学習しておらず、ケンは毎回お腹をすかせてやってくるということがわかった。
それから、毎日現場にお菓子を買って持っていくことがわたしの役割となった。
別に誰にも指示されていないし、なんなら誰もお菓子代を出してくれないのですべてわたしの自腹である。
なんとも納得の行かない、モヤモヤした気持ちで日々は過ぎていった。
そんなある日のこと。
季節はまもなく梅雨入り、なんとなく暑さも湿気も感じられるようになったころ。
その日は珍しく夕方に仕事が一段落し、わたしは片付けをしていた。
その頃にはなぜかケン以外の振付家やスタッフもわたしの用意したお菓子の詰め合わせをつまみながら仕事をするようになっていた。
コンビニで買う駄菓子など、たかだか数百円なのだが、特にわたしに感謝することもなく(直属の先輩だけは気づいてお礼を言ってくれたこともあった)人々がムシャムシャとわたしが買ったお菓子を食べるのを見るにつけ、(なんでなん……?)という思いが募る。
一方で、「めちゃめちゃ気が利いていて仕事場の雰囲気をよくするわたし」に酔っていなかったかと言われれば、まあ酔ってたよね。
自己犠牲の気持ちよさは、時に人をだいぶおかしくしてしまう。
その日のお菓子には、瓶入りのラムネ菓子が入っていた。
暑くなってきた気候に合わせて、爽やかなものを、という心ばかりの気遣いである。
(ちなみにその前日に、とあるスタッフがわたしが用意したクッキーを食べながら、「こんな暑いのにこんなパサパサしたもの食べらんないよね〜」と発言したこととは関係がない。◯すぞ。)
そのラムネにバカ田が食いついた。
「ラムネじゃん!知ってる?ラムネがイチバンいいんだよ?」
何がイチバンいいのかまったくわからないが、興奮したバカ田はまくしたてる。
「オレみたいなクリエイターはさ、ホラ、アタマ使うじゃん。
だからラムネでエネルギーを補給すんのがイチバンいいわけ」
周囲のスタッフやダンサーは「へぇ〜」とお決まりのリアクション。
バカ田はご満悦だ。
「ホラ、みんなもアタマ疲れてない?食べなよ」
しかし、バカ田も他のスタッフも、その場ではラムネを開封することはなく、各々仕事に戻っていった。
いや食わんのかい。
まあ確かに、もうすぐ夕食かなという時間帯に、よくわからない間食をとる意味もないしな。
そう思いながら横目で未開封のラムネ菓子の瓶を、わたしは確かに見た。
その十数分後である。
いつものとおり、誰もいなくなった仕事場に、食べられなかったお菓子を回収しに行った。
そこには、数枚のクッキー、小粒のチョコレート、のど飴などに混じって、さっきスルーされたラムネ菓子の瓶があるはずだった。
もしかしたら誰かがあのあと数粒食べたかもしれないが、さすがにこの短い間に一瓶食べ切られていることはないだろう。
そう思っていた。
しかし
ラムネ菓子は瓶ごと消えていた。
バカ田〜〜〜〜〜〜!!!!!!
あいつ、瓶ごと持って帰りやがった!!!!!
嘘だろ!?
部下が自腹で仕事場に置いてる差し入れだぞ!?
瓶ごと持って帰るな!!!!
ていうか、それは、もう
なんよ!!
あまりのことに、わたしは膝から崩れ落ちた。
確かに、バカ田がラムネを持ち帰るところを見たわけではない。
しかし、明らかに一人だけラムネへのリアクションがおかしかったバカ田である。
どう考えても犯人だろ、お前。
その日を境に、わずかに心の隅にあった部下としてバカ田を尊敬する気持ちが、完全に消え去った。
わたしにとってバカ田は、強欲でしみったれのウェッティなゴキブリでしかなくなった。
バカ田には他にもどうしようもないエピソードがたくさんある。
バカ田とタクシーに相乗りしたとき、わたしより先に降りながら、「この子の分も払っとくよ」と言って出した金額が、その時点までのメーターの料金より20円くらいしか多くなかったこと。
出張のときに会社が出すホテル代をちょろまかすため、仕事場から2時間かかる実家に泊まって、しかもそれを周りに自慢していたこと。
あと普通にセクハラとパワハラ。
しかし、このラムネどろぼう以上にわたしを失望させた事件はない。
余りにも、人として、しょうもない。
この事件から数年後、さすがのブラックさに耐えかねて、わたしはこの仕事を辞めた。
それから何回か転職したが、そのたびに職場環境はよくなり、同僚はまともな人ばかりになっていった。
しかし、何年たってもこの狂った職場の人々を思い出しては、布に針をぶっさす夜があるのだ。